「涼宮ハルヒの憂鬱」を見る憂鬱 〜TVアニメの消失〜

 最初に一言断っておくと、涼宮ハルヒのアニメはメディアミックスとしてはこれ以上無いものだと思った。正にメディアミックスの鏡であると。故に憂鬱になる。


 時間シャッフルについては放送中から色々と思うところがあった。一話は普通に上手いなと思ったんだけど、徐々に「一話以外はシャッフルの意味が無いのでは」「むしろ小説版「憂鬱」をラストに持ってくるだけのために苦肉の策としてシャッフルが用いられているのではないか」と思うようになってきた。その後、監督インタビュー(どこにあったか失念)や、ザ・スニーカーの谷川×賀東対談を読む事でそれは確信に変わる。


 ザ・スニーカーから原作の谷川氏のコメントを引用する。
 賀東氏の、原作のプロットを変えるという選択肢は無かったのか? という質問を受けて

谷川「それは僕がちょっと嫌だった。やっぱり、後のエピソードというのは、『憂鬱』が終わってから発生しているので、キャラクターの心情とかが変わっちゃう。『憂鬱』を踏まえてということだから、時間軸上で短編を先に持ってくると、おかしいことになっちゃうんですよね。」
角川書店 ザ・スニーカー8月号 P226 より

 これを読んだ時さすがだと思ったのが、あくまで原作準拠の心情変化しか許さないという事。つまりアニメを作る側に解釈・再構成をさせない(!)という、統一を図る上では最も強い方法論をとった。正にメディアミックス。ビバ角川。
 またこれは、さらに重大な事実をも示している。それは「ハルヒ世界内で起きた出来事の時間軸をいじるのはマズイ」のに「視聴者側の視聴順(=見る側の時間軸)をいじるのはかまわない」ということ。後者の場合、実質的に視聴者側は心情変化が分からない、もしくは混乱するままになってしまいそう(これは原作を例え知っていたとしても。TVアニメというのは順番どおり、そして週間で見るものなので)なのに、前者は許容されないが後者は許容され得るという理論が展開されているという事になる。これは一体どういう事なのか?


 そこには二つの力が働いている。
 一つは「メディアミックス」であること。つまり「本家本元」が存在して、アニメはあくまでそれの関連商品であるのでそういった理論が許される。逆に言えば、あくまで関連商品であるから本家の設定を勝手に変えてはまずいし、視聴時の疑問は原作を読めば分かる(アニメではなく!)ようになっていなければならない。順序がバラバラであっても、原作を参照すれば混乱することなく、むしろより統一的な見方が可能になる。アニメに不満を持つなら本家本元を読みなさい。そうすればアニメのこの場面は本家のこういうところを表現したかったんだと分かりますよ。実に優れたメディアミックスだ。
 もう一つは、「見直すためにDVDを買え」という圧力。実際見ていると、伏線のようなものはそこかしこに散りばめられているので(ちなみに僕は原作既読者)一から見直せば色々と発見はあるだろう。しかしTVアニメの視聴者というのは一話から順番に、それも週間で見るものなのでその伏線を思い出すには何週間も前の放送を思い出す必要がある。果たしてTVアニメとはそういう見方をするものなのだろうか。普通は前の週に見たものに記憶は積み重ねられていくものであって、話数ごとに記憶の引き出しの中に整理されているようなものではないのではないか。え? 分からないならDVDを買い、時間軸を整えなおし、見直せばいいじゃない。それで何か不都合ある? ごもっとも。


 アニメがTVで放映されるという事の意味は揺れ動いている。最近でもガドガード、ROD、IGPXなど、最終回まで放映されないというアニメが出てきている。それ以前に、エヴァが放映された前後辺り(別にエヴァが契機というわけじゃなかった記憶があるけど、時期的には確かその辺だったような)から、ビデオ・DVDのプロモとしてのTVアニメというスタイルが生まれてきた。そしてそれは今も続いている。
 かつて四クールが基本だったアニメは二クールも当たり前になり、いつしか一クールすら当然の事になった。短くなったサイクルは、多くの企画が通されていく上で必要だったかもしれない。しかし四クールで描ける事と一クールで描ける事、一年間アニメを見続ける事と三ヶ月アニメを見る事、そこに大きな隔たりはないのか、それが省みられる事はないのか? より早急な、よりプロモーションとしての、よりメディアミックスとしてのアニメが求められているのだからしょうがないのか?
 時間シャッフルというのは実はその延長上にあるんじゃないかな…と考えるにいたり、僕は憂鬱になる。