『超かぐや姫!』関連で、アニメは必ずしも映画的な演出や表現に偏らなくてもいいはず、という話があり、その流れで「カット割をしないでFIXでキャラに演技させること」が映画的な表現の否定である、という風に書いているのを見かけたのだが、「映画的」というのをそういう風に思ったことがあんまないのでよくわからない。アニメーターを(レイアウトを描く人としてだけでなくキャラクターの演技者として)信頼した作品が見たい、という話なら(賛同するかは留保するとして)意味は分かるのだが。
「カット割をしないでFIXで演技」というのは、映画的云々というよりもアニメーター(アニメーター自身の能力だけでなくアニメーターという役職が作品に果たす役割の大きさ)を演出的な観点から絶対的に信頼するという発想の方が大きいのではないか(なので、自分の超かぐや姫初見時の感想は「アニメーターの作った作品だなあ」というものだった)というのと、その裏返しとして密度や精度の問題で画が持たないからカットを細かく割るんだという発想が特にアニメにはあるであろうということと、業界屈指の映画オタクである押井守が演出的な必然がない限りカットは割りたくないと明言していることと合わせて、カットを割らないようにしたら映画的でなくなる、というのはよくわからないのであった。まあ、もしかしたらそうなのかもしれないが、本質の議論というより技術的制約(今は「カロリー」とか言うんでしたっけ?)の方が大きいように感じてしまう。
一方で、アニメ表現の輸入先が実写映画である必要はない、ということであればその通りであるような気がする。「漫画的」や「文学的」や「音楽的」や「絵画的」や「演劇的」や「アニメ的」な演出をみたい、というのはまあその通りではある。「アニメ的」だと原形質性の話が安牌になってしまいがちだけども、そこはきちんと考えていきたいところ……