輪るピングドラム15話「世界を救う者」

この話で全体の構造がだいぶ明示された気がする。展開はどうなるか分かったものではないが。


桃果の存在は、世代間断絶として描かれる内のひとつなんだろう。多蕗やゆりには、桃果という世界を変えてしまうほどの大きな存在がある。逆に高倉兄弟や苹果の場合、高倉兄弟は親に裏切られ、苹果は生まれた時点で既に桃果は居なくなっている。


だから「きっと何者にもなれない」という言葉は、現代におけるロールモデルの不在も指している。なるべき何者かが、いったい何なのかも分からない状態ではどこにも行き着けないだろう、と。苹果が見たことも無い存在である桃果になろうとする行為は、そのように描かれる。


ところが、多蕗やゆりにしたところで桃果は既に失われている。では多蕗やゆりと、高倉兄弟や苹果との差は何か? それは、桃果のような人間が居るかもしれないという想像力が届くか否かということにある。


ウテナは王子に会った後から話が始まっている。多蕗やゆりにしても、桃果に会った後について描かれる。

しかし高倉兄弟が異空間の中で「ピングドラム」という訳の分からないものから始まった(始めざるを得なかった)のは、彼らの世代もしくは現代にとって、そういう存在(桃果でもデミアンでもカムパネルラでも)が、現実の人間として想像不可能なよく分からない代物だからではないか。


そのような中で桃果をウソではない存在にするために、苹果がなろうとする「明らかにウソである桃果」を対置するというレトリックを駆使しつつ、さらに15話まで溜めてからようやく登場させるという、とても慎重な構成までとっている。