00年代を振り返って(4)

つぎー。
エロゲインターフェイスについてー。もちろんアニメの話な。
背景とキャラ絵のみ、背景とキャラ絵はリンクしない(すなわち詳細な位置関係は無視される)という貧弱なインターフェイスが生き残れる理由と言うのは簡単で、
でかい=重要 小さい=重要でない
この理屈のみの画面情報で成り立てるから。それって本来リアルとは程遠い嘘っぱちなんだけれど、映像を見てる人間がカメラを意識する瞬間ってほとんど無いから、そういうものだと思って慣れてしまえる。映像が当たり前すぎる世の中だからこそなんだけども。
で、この辺を打破する流れって全く無かったね。揺り返しの一つもあったら面白いかなと思ってたけど、まあそんなことがあるわけはない。やっぱり労力の低いものへと流れていく。
で、それが新しい表現に向かえるわけでもなさそうに見えるのがすげー困る。空間性とか比較的どうでもいいことなんだよ、じゃあ何が重要なんだ? キャラの顔だ! そんなことは50年前から知ってるよ!! ボケが!!!


背景を自然に取り扱わず、主張するための小道具であることを明示する新房監督みたいなやり方って、凄く漫画的だと思う。漫画の背景って、省力化のため以外にも演出として存在している感が他の映像媒体に比べて物凄く高い。背景に何もないコマって凄く多いけど、あれって物凄く不自然なわけで、逆にきちんと背景が描かれているだけで意味を持っちゃう。その感覚に近い。
京アニが持て囃されてるけど、こっちは逆で、漫画的表現を意図的に排除してる。この二つの流れは明らかに分化しているんだけど、その割りにどっちも普通に若いオタクに見られていて、それはいいことかなーとも思う。ここまではいいんだけど、先述したエロゲインタフェイス並のものまでフラットに取り扱われている感があって、それってつまりアニメに求められているリアルの次元が駄々下がりだよな、とは思う。


リアルといっても写実的であるという意味ではなくて、例えばヤマトがリアルで有り得た時代があり、金田パースがかつてのリアルな動きであり、ニュータイプがリアルの問題であると考える、みたいな意味でのリアル。本当の現実と近い距離であるかどうか、と言う意味ではない。トップをねらえの劇中に出てくるポスターに象徴されるリアル感とか、そういう話ね。で、その辺がもうガッチリと割り切られている気がして、癒しとか暇つぶしとかそういう印象を抱かざるを得ない。


まとまらない