走り

抽象的な話になるけど、僕自身はやっぱり物語を理屈で見てる面が大きくて、だから論理的な部分のピークで僕の感情もピークを迎えていたんだなあということが分かりました。
これを具体的に書く。NOTEBOOKにも書いてあるけど、論理的な山場は最後のタイムリープ。自分の初見の感想からも、一緒に見た人の意見を聞いても、ネットで観想を調べても、ここで感極まったという人が多い。
でもあの作品全体を象徴するシーンはラストの走りのはず。本当はあの走りを見ながら真琴のそれまでの思い、これからの事、あるいは魔女おばさん、チアキ、コウスケ、とにかく時かけという作品全体及びそれを見ている自分自身について思いを馳せながら涙する…べきなんだけど、特に初見時はこれが分かりづらい。最後のタイムリープ時の走りがドラマ的にも作画的にも良かったってのもある(もちろんラストの走りも良い)けど、話の筋を追うことと走る真琴のイメージの積み重ねが両立しづらいという面があったせいもあると思う。それだけ話にのめり込んでしまう巧妙な作りになっているということでもあるけれど。ラストに走ってるときはまだチアキと会ってないので、話の筋の方が頭に残って気になっちゃうというのもある。
なので映画館で見ているその場で楽しむというより、見終えた後反芻することで事後的に「良いシーンだった」という扱いになってしまった(少なくとも僕は)。初回よりも二回目の方が面白かったのは、ラストを知っているので真琴の走り(ラストに限らず)を堪能できたから、というのは確実にあった*1


同じ細田監督のウォーゲームの場合、ピークは太一たちがネット空間に入り込んでしまうというところで、これに対する伏線はあっても整合性は全く無い。そもそもメールの力で進化してるんだから話の筋としてネット世界に入る描写は必要ないんだけど、でも納得して感動しちゃうんだよね。これは少年漫画的な「努力・友情・勝利」というイデオロギーによる面もあるし、選ばれし子供たちとデジモンの絆やデジタルワールドの世界観、あるいはデジモンムービーブックに書いてるような観客自身のアニメ世界への参加、それらの要素がないまぜになった一つの奇跡になっている。
カタルシスが起こるように計算された構成になっているという側面ももちろんあるんだけど、前述した根底にあるテーマがあるから構成抜きでも直に感情に訴えかけてくる。それも話が飛躍してしまう程の強い感情の発露を感じるからこそ感動するんであって、論理的な方法で進入するんだと途端につまらなくなっちゃう。
時かけの話に戻すと、この話のテーマは「前見て走れ」で正にそのままを表現してる。だからもちろんそこに感動はあるんだけど、大きな飛躍では無い。「走る真琴」は話の延長上に存在する。論理的に素直に納得して消化できてしまう。
つまり、話全体をぶち壊すほどの感情の爆発を表すには「時かけ」はあまりにも論理的に作られすぎているんじゃないか、というように感じた。ここが時かけを「傑作」というよりも「良作」「佳作」という言葉が似合う作品にしてしまっているんじゃないかと思う。

*1:なので今現在一番気に入ってるシーンは、それまでの真琴の走りとラストの走りとをつなぐ、コウスケ「前見て走れ」真琴「おー」のシーン